御朱印
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2019.7.11【 方広寺 】京都市東山区茶屋町527-4
豊臣秀吉が奈良・東大寺に習い大仏造立を行ったとされる方広寺。現在は隣接地に大仏殿跡緑地公園として名残りがある。
また弥次喜多道中の中で秀吉が奈良の大仏に負けない大仏を造らせたとされ、二人は「手のひらに畳が八畳敷ける」「鼻の穴から傘をさして出られる」など、驚いたとされている。 |
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2019.7.11【 法住寺 】京都市東山区三十三間堂廻り町655
後白河上皇の御陵を守る寺として江戸時代まで長く存続。
明治には御陵と寺が分離されて現在に至り、あらゆる災厄から身代わりとなってくれるといわれる身代不動明王が祀られ「みがわりさん」と呼ばれ親しまれている。
またサザエさんの作者「長谷川町子」さんとの縁により遺骨が安置されている。 |
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2019.7.11【 豊國神社 】京都市東山区大和大路通正面茶屋町530
天下統一を果たした豊臣秀吉公は、伏見城でその波乱に満ちた生涯を終えた。御遺骸は遺命により東山阿弥陀ヶ峯の頂に葬られ、中腹に秀吉公を祀る豊国社が創建された。現境内には伏見城の遺構と伝えられる国宝の大唐門が聳え、また北政所「豊臣吉子方」を祀る貞照神社や秀吉公の遺品・豊国社の社宝を収蔵する宝物館等があり、出世開運の神様として全国より崇敬を集めている。 |
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2019.7.11【 養源院 】京都市東山区三十三間堂廻リ656
淀殿が父「浅井長政追善」のため創建。
廊下の天井には武将らしき姿として朧げに見られる『血天井』が有名だが、これは伏見城落城の際に自刃した武将たちの血のりのしみた板を使用したためといわれている。 |
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2019.6.14【 長圓寺 】京都市伏見区淀新町681
幕末、鳥羽伏見の戦いで幕府軍「新撰組」の夜戦病院になった寺として知られ、境内には新撰組も拝んだといわれる閻魔堂がある。 |
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2019.6.14【 與杼神社 】京都市伏見区淀本町167
僧「千観内供」が、応和年間に肥前国「佐賀県」の與止日女神社より淀大明神として勧請したことに始まると伝えられるが、山城国乙訓郡中に與杼神社の名があることから、応和年間より以前に鎮座していたと考えられている。 |
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2019.6.12【 縣神社 】宇治市宇治蓮華72
平等院から直ぐの位置にある縣神社。
社が平等院の鬼門のため鎮守社として藤原頼道によって創建されたと書物に記されているが、創建前からこの地に神社があり、周囲に木々が生い茂り『あがたの森』として人々に親しまれていたと伝えられる。 |
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2019.5.17【 端泉寺 】京都市中京区木屋町通三条下ル石屋町114
豊臣秀次が高野山で自刃させられた後、一族が三条河原で処刑させられた。一族の遺骸を埋葬した処刑場には大きな塚が築かれ、頂上には秀次の首を納めて『秀次悪逆塚』と刻し往来人への見せしめとされた。
後に角倉了以が高瀬川の開削の際に荒廃した塚を発見し心を痛め、僧桂叔と相談し碑面から悪逆の字を削り、新たに墓域を整備して墓碑を立て、側に一宇を建立し慈舟山瑞泉寺と号したと伝えられている。 |
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2019.5.17【 矢田寺「矢田地蔵尊」】京都市中京区天性寺前町523
代受苦地蔵と呼ばれる本尊の地蔵菩薩立像は、地獄の火焔の中に身を置かれており、地獄で罪人を救っている地蔵の姿を彫刻して祀ったものと伝えられている。
本堂にかかる梵鐘は送り鐘と言われ、8月16日にこの鐘をついてご先祖様を冥土へお送りするとされている。 |
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2019.5.17【 永福寺「蛸薬師堂」】京都市中京区東側町503
僧「善光」が戒めに背き、病気の母親に好物のタコを買う孝行譚に由来し、本尊薬師如来は蛸薬師の名で名高く、癌封じ・心身の病気平癒・諸願成就を祈願する人々の参拝が多い。 |
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